アジアでもっとも栄えていた国が中国の唐でした。日本は何度も「遣唐使」を送り、たくさんの文物や先進の情報を持ちかえり、国づくりに活かしました。奈良の平城京は、唐の都「長安」を実際に見てきた遣唐使・粟田真人もかかわって、長安をモデルに造られた都です。平城京ができたころ、粟田真人は大宰府の長官となりここでも都に似たまちづくりを進めました。
大宰府には、都にかわって外国からの使節を饗応し、交易する、という役目がありました。そのため、国際標準となる賓礼(外国使節を迎える儀礼)を行う舞台として、「都」が必要とされたようです。
当時、大宰府には百済の都を模した要塞(水城・大野城・基肄城)がありましたが、これを外郭とし、都市をそなえ、北に政庁、中央に朱雀大路を置くことで、「西の都」が誕生しました。
外国からの使節は、まず博多湾岸の筑紫館(鴻臚館)に入り大宰府に向かいました。
大宰府では客館に滞在し、大宰府政庁での外交儀礼や宴にのぞみました。楽が流れる中、日本・唐・新羅の最高級の食器で豪華な食事が振る舞われ、唐ではじまった喫茶のもてなしもありました。
「西の都」大宰府には、外国の大切なお客をもてなすために、文化的な技能や知識をもった人々が求められました。そうした文化人が集まり交流することで、新しい文化が育っていきました。大陸から日本に伝わった梅の花を観賞しながら和歌を披露しあうという新しい文化もここから生まれました。梅の花はその後、菅原道真にまつわる言い伝えとともに、太宰府の花として広く知られ、親しまれています。
大宰府は、日本各地から、また海外からの人びとが往来し、多くの品々があふれる国際都市でした。
屋根の瓦や床にしきつめた煉瓦の模様にも海外の影響がうかがえます。「西の都」大宰府に集まった文物は今、市内の博物館や、観世音寺・太宰府天満宮で見ることができます。