ストーリーの構成文化財 宝満山
宝満山
宝満山は、大宰府の北東にそびえる標高829mの山です。 古くは「御笠山」(みかさやま)「竈門山」(かまどやま)とも呼ばれていました。
「御笠」は、この地域の古い地名です。 山の麓を通った神功皇后(伝説上の皇后)が風に吹かれて、かぶっていた笠を落としたためついた地名とも、見る方向によっては山の形が笠のような円錐形にみえるため、山の名がついたともいわれています。
「竈」(かまど)とは、料理を行う炉のことです。 雲が山をおおう姿がカマドで煮炊きする様子に見えるため、とする説、山中に三本そびえたつ巨石・竈門岩(かまどいわ)による、とする説、竈門神(かまどがみ)を祀るため、とする説があります。
「宝満」の名は、13世紀ころの記録に登場します。 この山で神仏習合が進むなか、天台宗の影響で生じたと考えられています。
古代から国境祭祀が行われ、神仏をまつる山として栄えました。
『枕草子』で有名な清少納言の実父、清原元輔が「春は萌え 秋は焦がるる かまど山…」と詠むなど、四季折々の美しい風景が知られ、現在は多くの登山客でにぎわっています。
もっと見る
宝満山の伝統を引きつぐ神社で、玉依姫、神功皇后、応神天皇を祀っています。山頂に「上宮」があり、麓が「下宮」です。
伝承によると、天智天皇の時代に大宰府が現在地におかれた時、鬼門(きもん)となる北東のこの山に八百万神を祀ったとされ、天武天皇の時代、僧・心蓮がここで修行中に「玉依姫」(たまよりひめ、神武天皇の母)が現れ、これを朝廷に伝えたことで、山頂に上宮が建てられたとされています。
山中では、8世紀から国境祭祀が行われたとみられています。儀式で用いた銭、三彩の壺など遺物が各所で見つかっているほか、「蕃」(=外国を示す文字)が書かれた土器もあります。また、803年には「竈門山寺」(かまどさんじ)が記録にあらわれ、神と仏がともに祀られたことがうかがえます。
9世紀になると、「竈門神」の神階が次々に上げられます。このころから「大山寺」と呼ばれ、海外との交易も行う有力な寺社として、中央でも名が通っていたようです。12世紀初め、この山をめぐって石清水八幡宮(大阪)と比叡山(滋賀)が争い、比叡山の末寺となりました。12世紀末には修験道の山としての色合いが強まりました。最盛時には山中に370の坊があり、その繁栄ぶりは、出土する多くの輸入陶磁器や、高僧伝や公家の日記からうかがえます。
14世紀以降、戦乱の舞台となったこともあって衰退しますが、1665年に京都・聖護院の末山となった後は、山伏の活動によって、宝満山信仰が広まっていきました。
明治初年の廃仏毀釈によって、修験道は廃止され、竈門神社は衰退し、太宰府天満宮の宮司が竈門神社の宮司を兼務するようになり、今に至ります。
もっと見る
【国史跡】
大宰府の北東にそびえる標高829mの山で、古くは御笠山と呼ばれ、美しい山容を誇ります。奈良時代より山中で国家的国境祭祀が行われました。最澄は入唐の際にここで薬師仏を彫り航海安全を祈願したと記録され、帰朝後は日本六所宝塔を発願し、ここに安西塔が建立されました。中世には寺院や大宰府守護の館がおかれ海外交易なども行っていました。現在は竈門神社の社地となり、古代祭祀の山の風情を伝えています。