ストーリーの構成文化財 太宰府天満宮神幸行事
榎社
古代都市・大宰府条坊のほぼ中心部、政庁からのびる朱雀大路がこの東を通っていました。
ここは都から赴任してきた官人の官舎「南館」跡で、901年に大宰府に左遷され903年に亡くなった菅原道真が住んだことで知られています。
榎社は、もとは「榎寺」と呼ばれていました。1023年、道真の霊を弔うため、大弐(大宰府の次官)藤原惟憲がここに浄妙院を建てたのが始まりです。境内に榎の大木があったため、いつしか榎寺と呼ばれるようになったと言われています。
境内中央の建物は「御旅所」と呼ばれ、毎年9月の神幸式大祭で天満宮から下ってくる、道真の御霊が一晩泊まる建物です。この後ろに、配所の道真を慰めるため、松の葉に麹を持って差し上げるなど、なにくれとなく世話をしたと伝えられる浄妙尼を祀る「浄妙尼祠」、そして道真が連れてきた幼子の一人・紅姫の供養塔があります。
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太宰府天満宮は、日本の歴史上、最も有名な文人として知られる、菅原道真を祀る霊廟です。京都・北野天満宮とともに、天満宮の総本社です。
菅原道真(845-903年)は、幼いころから詩歌に才能をみせ、のちに天皇や大臣に講義を行う「文章博士」となりました。また菅原家の私塾「菅家廊下」を主宰し、朝廷における文人社会の中心でもありました。政治家としても優れ、宇多天皇の信任をえて要職を歴任します。遣唐使の廃止も道真の進言によるものとして知られています。そして醍醐天皇のもとで右大臣にまで登りつめました。
901年、ライバルだった左大臣・藤原時平の陰謀により、天皇の交替をもくろんだとして罪をかけられ、道真は大宰府へ左遷されます。そして903年2月25日、失意のなか59才で亡くなりました。遺言により、亡骸は故郷にはもどらず、大宰府で埋葬されることになりました。
はじめ、「四堂」(あるいは大野城がおかれた「四王寺」山)のほとりに埋葬する予定でしたが、その途中、亡骸を乗せた御車の牛が突然動かなくなります。牛がどうしても動かないのを人々は不思議に感じ、そこを墓所とした、と伝えられています。
905年、道真の門弟だった味酒安行が、墓所に廟を建て、のちに安楽寺を創建します。そして919年に醍醐天皇の勅令によって社殿が完成したと伝えられています。これが現在の太宰府天満宮となりました。
亡くなった当初は怨霊として畏れられましたが、道真が優れた文人・学者だったことから、のちに文芸・学問の神として篤く信仰されるようになります。門前町がつくられ、多くの人が訪れ、栄えました。それが現在に至っています。
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平安時代(1101年)大宰権帥大江匡房により始められた神幸行事です。毎年9月、太宰府天満宮から菅原道真の謫居地であった府の南館跡(現在は榎社)まで古代の地割を引き継ぐ道を神幸します。神幸行列は神輿を中心に400~700人が古代衣装で供奉します。