ストーリーの構成文化財 観世音寺・戒壇院
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観世音寺 宝蔵
観世音寺境内の東に作られた、校倉造に似せた収蔵庫です。
宝蔵に入ると、高さ5mほどの彫像が並ぶ様子に目をうばわれます。これらは平安時代~鎌倉時代に造られたもので、国の重要文化財に指定されています。
最も古い彫像は、階段を上がるとほぼ正面にある「兜跋毘沙門天立像(とばつ びしゃもんてん りゅうぞう)」です。9世紀の像で、異国風の鎧をまとい、地天女と二鬼に支えられたこの毘沙門天は、唐の西域の国「兜跋国」に現れた毘沙門天とされ、国土を守る仏とされています。これと同種の像が、京都・平安京の朱雀大路の南端にあった羅城門(京へ入る正門)に置かれていました。このためこの像も、もともと古代都市・大宰府条坊の「羅城門」に置かれていたとする説が有力視されています。
展示ケースには、創建瓦も収蔵されています。観世音寺の創建瓦は、奈良・明日香の川原寺(飛鳥四大寺の一つ)や藤原宮(694-710年の宮殿)といった、7世紀末の天皇にゆかりのある施設に使われた瓦の系統をもっています。これは現在の堂舎には使われていませんが、境内から多くの創建瓦が出土しています。
観世音寺には、もとは大陸に起源をもつ「伎楽」の楽団が置かれていました。686年、「新羅の客人をもてなすため、川原寺の伎楽を筑紫に運んだ」と『日本書紀』に記されており、これが観世音寺に引き継がれたとみられています。905年の『観世音寺資財帳』には、「旧伎楽」「新伎楽」それぞれの用具の状態が具体的に記されています。この伝統は後にも続き、「舞楽面」が伝わっています(鎌倉時代~南北朝時代、国の重要文化財)。
このほか、新羅の影響を受けたとされる文様塼(レンガ)や、宋風獅子像(国の重要文化財)など、国内外の文化交流を示す文化財が数多く収められています。もっと見る
観世音寺 梵鐘
観世音寺の梵鐘は、「戊戌年」(698年)、「糟屋評」(現在の福岡県粕屋郡)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と兄弟とされる7世紀末のものです。これらの梵鐘は同じ鋳型で造られたとみられており、妙心寺の梵鐘は洗練され完成された形であるため、観世音寺梵鐘の方がより古いと言われています。歴史書『日本書紀』には、682年に筑紫大宰・丹比嶋が大鐘を貢上したという記事もみえ、観世音寺の鐘を指すと考える人もいます。
観世音寺の鐘の音は、大宰府に左遷され、「府の南館」に住まう菅原道真の耳にも聞こえていました。家を出ることもできなかった道真は、漢詩「不出門」のなかで、「都府楼はわずかに瓦の色をみ、観音寺はただ鐘声を聴くのみ」と詠んでいます。
1300年余の大宰府の歴史を見守ってきたこの鐘は、いまも現役の鐘です。日本には大みそかには除夜の鐘をつき煩悩を払う、という行事があり、この鐘をつくため多くの人が訪れます。
(現在この梵鐘は、九州国立博物館で展示されています)
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本堂
戒壇院の建物は、905年の記録や古絵図から、東西に細長い正堂と礼堂の二棟が並んでいたとみられ、1148年の記録には、戒壇院の柱間は5間と記されています。
その後の戒壇院は衰退し、1668年に博多の聖福寺・承天寺・崇福寺のもとに禅宗寺院として再出発しました。現在の本堂は1680年に再建されたとされる、禅宗様の建物です。
本尊は、奈良の東大寺大仏と同じ、盧舎那仏です(国の重要文化財)。12世紀の制作とみられ、手のひらを外に向けて説法を行う姿をしています。
本尊の両脇には、文殊菩薩像(向かって右)、弥勒菩薩像(向かって左)が立っています(太宰府市指定文化財)。いずれも江戸時代の制作で、京都の仏師によって制作され、ここで仕上げられました。このころ、梵鐘(福岡県指定文化財)、木造鑑真和上像(太宰府市指定文化財)、観世音寺とゆかりのある弘法大師(空海)像なども制作されました。
中央の段が受戒の場となる「戒壇」です。ここに天竺(インド)、唐(中国)、奈良(日本)の土を納めたと伝えられています。もっと見る
【国史跡(観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡)
国重要文化財(彫刻)
県有形文化財(建造物・工芸)】
母斉明天皇の追善のため天智天皇の発願で建立された寺院です。周辺に49の子院があったとされ、伽藍を示す礎石等が残り古代の繁栄を示しています。当寺には大陸由来の舞楽を行う楽団を備えており、陵王、納曽利の面(国重要文化財)が現存します。また落慶法要を行った玄昉の塚が残っています。鑑真・空海も滞在し、授戒もこの寺で初めて行われたとされ、天下の三戒壇の一つとなりました。戒壇院には戒壇が伝わっています。安置される16躰の諸仏(国重要文化財)は平安~鎌倉時代の洗練された造像で、仏教文化が継続して伝わっていたことを示しています。現在も同地で観世音寺(金堂、講堂は県有形文化財)・戒壇院(本堂、鐘楼、鐘は県有形文化財)として法灯を伝えています。