政庁の西側の丘陵は、「蔵司」という地名と、巨大な建物があったことを示す礎石が残っています。
今から200年ほど前(江戸時代)、黒田藩が行った調査記録図には、「蔵司」の地名とともに、たくさんの礎石が描かれています。このためここが大宰府の倉庫、いわゆる「府庫」だと考えられてきました。「府庫」であれば、九州各地の特産品が「調」として集められ、高貴な色とされた紫色の原料となる「紫草」や、東アジアとの交易にも使われた絹の真綿(・・・筑紫の綿として有名でした)などが集められた、と想像されます。
ただ、近年、遺跡調査が始まり、この「蔵司」説にいくつかの疑問がでてきています。
一つは、巨大な礎石建物の跡です。これが「府庫」の跡と考えられていましたが、遺跡調査によると、蔵の建築構造ではなく、むしろ政庁にあるような官舎建物ということが、しかも政庁正殿より巨大な建物ということが判明しました。「府庫」の管理建物とする意見修正も出ていますが、新たに、平城京・大宰府が参考にした唐長安城の宮殿構造と比較することで、外国使節への「饗宴」を行う迎賓館と考える説もでています。
もう一つは、この一帯からたくさんの鉄の矢じりや武具が見つかったことです。しかも、ほとんどが溶けるほど高温の火にあたっていました。ところが、一帯では火災の痕跡は確認されていません。なぜこれほど多くの矢じりが見つかるのか、なぜ高温の火にあたっているのか・・・?
こうした謎を解明するため、いまも調査・研究が進められています。