大野城は、北と南で二重に城壁をめぐらせていますが、南側の外側城壁の東南隅に設けられた城門です。これまで確認されている中では最大規模の城門跡です。
門壁は石垣で覆われ、すぐ脇の「水ノ手石垣」と一体的に作られています。
この門は、遺跡調査によって、3時期の変遷があったことがわかりました。
最初の門は掘立柱の門でした(?期)。直径43〜46cmものコウヤマキの柱が残っており、「孚石部」あるいは「孚石都」とみられる文字が刻書されていました。年輪年代法によって648〜650年頃に伐採されたことがわかり、大野城が築城された665年を遡って伐採されたことがわかりました。
8世紀はじめになると、大宰府政庁の整備とともに、ここも礎石建ちの門となりました(?期)。門道幅は5.4m。礎石の柱座から直径48cmほどの柱が使われていたことがわかります。ここでは大宰府式鬼瓦が出土しており、大宰府政庁の整備にあわせて改築されたようです。
9世紀になると、以前の門を若干補強するように石垣を足して改築されました(?期)。この改築の時の地鎮具が見つかっています。現地は、この時期の門の状態で保存・整備されています。
城門の近くには、倉庫跡(尾花礎石群・増長天礎石群)があります。
この城門から尾根沿いを下ると、太宰府小学校付近に至ります。この道は1970年代まで大野城跡内にある四王寺集落と太宰府を結ぶ道として使われていました。
※ 「掘立柱」とは、地面に穴を掘り柱を立てて、埋めて固定させる、日本の伝統的な建築技法です。