ここは、幅約60m、深いところで4mほどとされる外濠の跡です。ここに水を貯えていたことが、「水城」と名付けられた由来です。
この幅は、当時の弓矢が届く距離だったのではないか、という意見もあります。
外濠の奥に土塁があります。幅80mもある平たい下成土塁と、高さ約9mもある城壁のような上成土塁の、二段築成となっています。
地盤が弱い場所に枝葉を敷きつめた「敷粗朶(しきそだ)工法」、土や砂を薄くまいた上を棒などで突き固める「版築(はんちく)工法」などは、築造当時参考にしたとされる百済の都・扶余(ふよ)を取り囲んでいる城壁「羅城(らじょう)」と同じ工法が使われていたことがわかりました。
歴史書『日本書紀』には大野城・基肄城が百済の亡命貴族によって築かれたことが書かれていますが、水城築造にも同じような背景があったことがうかがわれます。