観世音寺の伽藍は、金堂が西にあり、東の塔と向かい合っているのが特徴です。大和四大寺の一つで、天智天皇が斉明天皇の供養のため創建したとされる飛鳥の川原寺を省略した形といわれ、また、東北の多賀城(陸奥国府。宮城県)に置かれた観音寺(多賀城廃寺)も、これと似た伽藍配置となっています。斉明天皇の供養という点で川原寺と共通し、中央政府の出先の官寺という点で多賀城の観音寺と共通しています。
境内に入る前の参道脇に、礎石が並んでいます。この付近が南門跡です。ここを少し進むと中門があったようですが、今はわからなくなっています。中門の両側から寺の中心部を囲うように回廊が設けられていました。
境内に入ると正面にある大きな建物が、講堂です。講堂の建物の周りには、古代の講堂の礎石が今も残されています。講堂の裏(北側)には、僧房跡があります。
正面向かって左の建物が金堂です。金堂が西側に置かれているのが、観世音寺伽藍の特徴です。金堂の裏(西側)には、戒壇院や、玄?の墓があります。
正面向かって右の樹木の間に、巨石が見えます。これが五重塔跡です。五重塔の裏(東側)には、宝蔵(収蔵庫)があります。
? 「府の大寺」として大伽藍を誇った観世音寺でしたが、1064年の火災で多くの堂塔を失いました。こののち再建と破損・火災がくり返されます。そして12世紀はじめに、奈良・東大寺の末寺となりました。
その後の伽藍についてはよくわかっていませんが、中世には、寺の周りに49の子院があったと伝えられています。戦国時代末には、戦乱で堂舎はほとんど失われ、創建時の本尊仏像も鋳つぶされました。寺の北にある日吉神社に陣を構えた豊臣秀吉によって、寺地も100町とされ衰退します。江戸時代になると、この地を治めた筑前藩主の黒田家によって再建が図られました。
こうした歴史の中でも寺宝は引き継がれ、今私たちは、古代大宰府の文化を目にすることができます。