宝満山の伝統を引きつぐ神社で、玉依姫、神功皇后、応神天皇を祀っています。山頂に「上宮」があり、麓が「下宮」です。
伝承によると、天智天皇の時代に大宰府が現在地におかれた時、鬼門(きもん)となる北東のこの山に八百万神を祀ったとされ、天武天皇の時代、僧・心蓮がここで修行中に「玉依姫」(たまよりひめ、神武天皇の母)が現れ、これを朝廷に伝えたことで、山頂に上宮が建てられたとされています。
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山中では、8世紀から国境祭祀が行われたとみられています。儀式で用いた銭、三彩の壺など遺物が各所で見つかっているほか、「蕃」(=外国を示す文字)が書かれた土器もあります。また、803年には「竈門山寺」(かまどさんじ)が記録にあらわれ、神と仏がともに祀られたことがうかがえます。
9世紀になると、「竈門神」の神階が次々に上げられます。このころから「大山寺」と呼ばれ、海外との交易も行う有力な寺社として、中央でも名が通っていたようです。12世紀初め、この山をめぐって石清水八幡宮(大阪)と比叡山(滋賀)が争い、比叡山の末寺となりました。12世紀末には修験道の山としての色合いが強まりました。最盛時には山中に370の坊があり、その繁栄ぶりは、出土する多くの輸入陶磁器や、高僧伝や公家の日記からうかがえます。
14世紀以降、戦乱の舞台となったこともあって衰退しますが、1665年に京都・聖護院の末山となった後は、山伏の活動によって、宝満山信仰が広まっていきました。
明治初年の廃仏毀釈によって、修験道は廃止され、竈門神社は衰退し、太宰府天満宮の宮司が竈門神社の宮司を兼務するようになり、今に至ります。