660年に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は朝鮮半島へ派兵しますが、663年、半島西岸の白村江で唐・新羅に大敗しました。
半島に近いこの地域にはすぐに、664年に「水城」が、665年に「大野城」「基肄城」が築かれました。これらが後に、「西の都」の外郭となったのです。
基肄城は、大宰府政庁の南正面の山上に築かれた城砦です。総延長約6kmに及ぶ城壁(土塁・石塁)で囲われ、現在4ヶ所で城門跡が確認されています。有事の際の逃げ城として、また平時には稲穀などの集積地として機能しました。
基肄城は「西の都」の設計にも深く関わっていたようです。
政庁の中軸線は基肄城を縦断しており、これに沿って城内からの道が北斜面を下り、次田の湯(二日市温泉)を経由して朱雀大路を通り、大宰府政庁まで南北一直線で結ばれています。なお政庁から見ると、基肄城の二つの頂の間を、政庁からの南北道や政庁中軸線が通っていきます。これは唐の都長安・洛陽、奈良の平城京でもみられ、基肄城を一つの基準として「西の都」が設計されたと考えられています。